人が亡くなり供養をする。その形が変わってきていると言われています。
鵜飼秀徳氏の『無葬社会』を読みましたが、葬送の変化は私たちの思っているよりも早いのかもしれません。
地方と都会ではまだかなりの差があります。私は石川県の葬送事情を全て知るわけではありませんが、まだ無葬と言われるようなことは耳に入ってきません。
家族葬や直葬などの規模の小さな葬儀の割合は年々増えていっていますが、参列される方々は亡くなられた方に尊敬の意をもっておられると私は考えています。そこに「無葬」というワードはありません。
しかし、経済的な事情や人間関係の希薄さから「孤独死」や「遺骨の行き場がない」といった「無葬」になってしまう。そのようなニュースは散見されます。
今回は無葬というのはどういう状態であるのか、その無葬は広がっていくのかを本書、『無葬社会』から考えてみたいと思います。
遺骨が捨てられている
遺骨を葬る。
私たちは身近な方を亡くしたときには丁寧に弔い、供養をしてきました。
従来の仏壇やお墓から、樹木葬や手元供養、はたまた宇宙葬など、形は変わってきていますが、弔うということ自体が無くなるとは思っていませんでした。
本書『無葬社会』の第一章で、遺骨が捨てられている現状が記されています。
「東京のスーパーで人の骨がトイレの便器の中に捨てられていた」
「長野の商業施設のトイレで焼かれた骨が捨てられていた」
「近年、骨壺が警察に届けられる遺失物の定番になっている」
そしてその理由が墓地を買ったり、お寺にお布施をしたくない。だからといって骨壺を手元に置いておきたくないからだと推察されていました。
経済的な理由や後継者の不在でお墓を建てない。そしてお寺や僧呂の意義が曖昧になり、お寺に納骨しない方がおられることはもう当たり前となっています。
しかしその遺骨が捨てられているということに驚きました。
この遺骨の問題は他誌でも取り上げられていて、月刊住職の2022年4月号には、全国の自治体における引き取り手のない遺骨数が掲載されています。
自治体 | 平成18年 | 平成27年 |
札幌市 | 84 | 286 |
仙台市 | 31 | 90 |
川崎市 | 169 | 314 |
横浜市 | 638 | 979 |
静岡市 | 29 | 125 |
浜松市 | 48 | 96 |
名古屋市 | 322 | 607 |
京都市 | 27 | 186 |
大阪市 | 1860 | 2999 |
神戸市 | 271 | 425 |
広島市 | 76 | 132 |
福岡市 | 44 | 178 |
※『月刊住職』2022年4月号より
大阪市の数が目立ちます。大阪市の平成27年の死亡者数が27,518人ですから、1割以上の遺骨が誰にも引き取られなかったということです。
地縁や血縁の薄れは地方にいても感じますが、場所によってはここまで進んでいることには気がつきませんでした。
「死体の埋葬又は火葬を行う者がいないとき又は判明しないときは、死亡地の市町村長が、これを行わなければならない。」(「墓地、埋葬等に関する法律」第九条)
引き取り手のない遺体は、自治体で葬儀をすることになります。
自治体がその遺骨を保管しておくことは難しいでしょう。高い温度で火葬して骨の残らないように出来ると本で読んだことがありますが、少なくとも私の近所の火葬場では技術的に出来ないとのことでした。
家族や親戚であっても、付き合いの薄れから孤独死や無縁墓が増えています。
その中でお金や時間がかかる、葬送儀礼が煩わしいものになり無くなりつつある社会。
捨てられている遺骨、引き受け手の無い遺骨、このようなケースが増えてしまうのであれば、それは「無葬社会」と言わざるを得ないのかもしれません。
何も残さないという葬送の形
0葬(ゼロ葬)
火葬した遺骨を持ち帰らない。
昨今、直葬という通夜と葬儀を行わない火葬場だけでの供養の形が増えてきていますが、この0葬はそこで残った遺骨も持ち帰らないというものです。
宗教学者の島田裕巳さんがご自身の著書、『0葬~あっさり死ぬ~』の中で提唱された葬法で、インターネットで調べてみると何社かの葬儀社がこの0葬をプランとして打ち出しています。
遺骨を全て引き受けてくれる火葬場はまだ少ないので、0葬の出来る地域は限られますが広がりが出てきているようです。
「火葬された後の遺骨は寺院の永代供養墓へ収めます」
「ご遺族の許可があれば散骨します」
こう書かれているものもありました。このやり方がもし広まれば、どこでも出来るようになるのかもしれません。
様々な事情があるのでしょう。そんなに簡素化してはダメだと簡単に言うことは出来ません。しかし、そこにストップをかける気持ちがあるのも事実です。これまで伝わってきた供養の心、「それでいいのだろうか」という思いです。
遺骨は亡くなられた方の象徴ですし、関係を切ってしまう冷たさが感じられることから批判も多くあります。
ただ、関係を切ったのに、親戚だから遺骨を引き受けなければいけないという事情もあります。
「これまでの思い」と「現代社会の事情」が、今まさにせめぎ合っています。
近くの火葬場の職員の方に0葬について聞いてみました。
「お骨は持ち帰っていただいています。しかし、この火葬場でお骨にした証明書があれば、引き受けることも出来ます」とのお話でした。
その火葬場は元々部分収骨なので、拾わないお骨を入れる場所はあります。もちろん限りがありますので、定期的にお寺へ運ばれているようです。
最後の最後にお骨の行き場が無ければ引き受けることもある。そのような対応をされているような印象を受けました。
石川県ではまだ0葬は周知されていません。お墓を持つ方も多いですし、火葬場からお骨を持って帰らないという選択をする方がいるとは私は聞きません。
置く場所に困れば葬儀社やお寺へ相談し方法を考えるのがまだまだ一般的です。
もちろん私の知る限りなのでお骨の置く場所に困っている人がいないとは限りません。
困っている人はいないという前提で考えてはいけないのでしょう。
送骨サービス
送骨とはゆうパックを利用してお寺や霊園に遺骨を送り納骨してもらうことです。
「送骨」とインターネットの検索窓に打ち込むと、送骨サービスをしている会社や寺院のホームページが出てきます。値段は平均すると3万円程になっています。
専用の入れ物が送られてきて、そこに骨壺を入れて郵便局へ行ってお寺に送る。郵便局から送ることに抵抗がある場合は、遺骨を運ぶサービスをおこなっている会社もあるようです。
・寝たきりになるなど高齢や身体的理由で、自分で納骨することが難しい人。
・後継者がおらず、自宅に遺骨を置いている。お寺との付き合いもない人。
・絶縁した親戚の遺骨がうちにある。
そういった方々が利用されるているようですが、年々利用者は増えているようです。
この送骨は遺骨や供養の心を軽く見ているという批判がありますが、利用せざるを得ない理由がある方もおられるのも事実です。
親や身近な人の遺骨を、送骨以外の方法も取れるのに、簡単だから、面倒だからという理由で送骨を選ぶというのなら、それは無葬社会と言わざるを得ません。
しかし、それは一面的なものであって、送骨を受け付けているお寺も遺骨を送る側も、最後の手段として使われている印象をもっています。
どこのお寺のお墓でも、お盆などに「帰れないから供養をお願いします」とお布施を送ってこられる方はおられます。
実際に遺骨のある場所へ行き供養をするのが1番亡き人を感じられることではありますが、その場へ行けないことが、「それは供養を疎かにしていることだ」と決めつけることも出来ません。
遺骨を捨てるという選択を生まないために生まれたサービスであり、助けられている方も多いのがこの「送骨」です。困っている方の要望に応えているものでもあるのです。
形は変わっても、供養することで支えられる
遺骨の扱い方やお寺との付き合い方が変わってきました。
上記に挙げたサービスは、一見すると遺骨や儀礼を軽んずるものにも見え、批判も起こります。
しかし身体が不自由であったり、お寺の付き合いがなかったり、決して遺骨や儀礼を軽んじて行われているだけではありません。
長寿の時代、人間関係の希薄化、そして情報社会の中で生まれるべくして生まれたサービスでもあります。
そして新しい言葉が取り上げられ、今流行ってきているような印象を受けますが、始めにも言いましたが、今の時点では地方には浸透していません。
家族葬という言葉を知らない人はいませんが、0葬や送骨という言葉は知らない方のほうが多いです。便利だからと言って普及していくものとそうではないものがあります。
それでも上に挙げたような葬送の方法が、決して遺骨を軽視しているわけではないという認識が一般的になった場合にはどうなるかは分かりません。
「無葬」かどうかは形ではありません。どのような思いで葬送の方法を選ぶのかということです。
供養はしなければいけないものではなく、供養することで残された人々の気持ちが癒され、前向きになっていくものです。
その象徴である遺骨。
その遺骨を巡る思いの行方を見守っていかなければいけません。